ぶぶいのぶい(内輪ノリは楽しい)
タイトルのぶい(V)というのは、2次元オタクにお馴染みのバーチャルYoutuber (Vtuber)のこと。
私はスーパーチャット(スパチャ、投げ銭)をしません。けどVのスパチャキャバクラムーブを卑下する言論にはクるものがあります。
つまり自分への言論ではないのに何か思うところがあるのです。
今回はこれがなぜか考えました。
早めに結論を述べますと、
内輪ノリはYoutuberを楽しむ上で大事だが、内輪に行き過ぎると自分に刺さる言葉が事実以上に増えてしまう
ということだと思います。
あと今回は、本筋と関係ない余計なとこまでVを語るアホと化すのをこらえて書きました。が、こらえられてないかもしれません。そしたらごめんなさい。
内輪ノリが楽しい
私の中で、Vtuberというコンテンツは「バーチャル」というルールあっての楽しさを持っていたように思います。
つまりは、「バーチャル存在なんだ」というルール下で生まれる緊張感が笑いの原動力になっている気がするのです。
Vtuber見てると知らんうちに いらすとやのVtuberイラスト覚えるよね
清楚、キャラ年齢、変な語尾、アニメ声、バーチャル世界上の存在、といった設定を見る側は受け取ります。
そしてそれらをガバガバな形で、つまりはバレバレな形で裏切ることで1つの笑いが生まれているんじゃないかって思います。
個人的な記憶ですが、ネット上でVtuberが伸びたきっかけも
立ち絵でイケない部分隠したり
言ってはいけない名前や言葉言ったり
思いっきり声がおじさんでコンビニバイトが本職だったり
上で挙げた建前をことごとく破壊することによって、だったと思います。
緊張からの突然の解放が笑いにつながるという話は歴史的にも結構言われてきたらしいです。このことは田河水泡著「滑稽の研究」から知りました。
そのため「この設定崩壊がVの面白さの1つである」とするのは客観的にもOKなのかなと思います。
しかしそれは、「バーチャル性を楽しんでいる」という内輪においてのみ効果があるとも言えるでしょう。
「バーチャルyoutuberだぁ?媚びた声でチヤホヤされたいヤバい人が絵を被っとるだけやんけ」という人には通じません。
※また、真っ当なバーチャル世界に期待していた人にも通じません。この場合についての考えは冗長なので記事の後ろにくっつけます。
私がVtuberを楽しむこと自体、内輪にいるところから始まったのです。
内輪ノリ2
私は上で書いたバーチャルに関する内輪の他に、もう一つの内輪があると思っています。
それが配信者単位の内輪です。
これは別にVtuberに限りません。色々な配信者に共通すると思っています。
自分が追っている配信者(or投稿者)を知るきっかけって、一般ウケというか外の人間が見ても面白いものじゃないですか?
とんでもない縛りプレイとか、当人を知らずとも笑える滑稽コンテンツとか、上手い歌とか有益な情報の発信とか。
そしてそこから深くその人のコンテンツを楽しめば、果てには凄い内輪ネタでも見てしまうようになってしまうのがこの世の性じゃないですか。
「姉弟(or友達)登場w」
「じいちゃん紹介!!」
「歯医者いった話!!」
「3分半、私に下さい」
など。
やる人によっては見る気が起きる内容です。中には急上昇ランキングに載るほど伸びる動画もあります。
初見でも楽しめることを定期的にやれる人が人気出るんだろうなと思いますが、今回の話とは関係ないですね。
Vにおけるその内輪を考えてみると、かの”バーチャルノリ”さえ認めれば柔軟かつ円滑にその中へと入っていける気がするのです。
内輪差(いらすとや)
そうでなくとも2次元の見た目が強い後押しをしてくれます。「どんなナリの奴が喋ってんだろ」という疑問を、思考停止でキャラに押し付けられる部分があるというかなんというか。
また、設定が崩れれば配信者側が取りつくろうことなく接し始めること、性癖暴露も辞さない風潮などからオタクはVを信頼しがちなんて側面もあります。ここは卯月コウの受け売りです。
そんな切り口でめでたく内輪ノリを楽しめるようになるんだと思います。
「甘え」とV
相変わらずそれっぽい用語は借り物です。
今回の拝借元は、土井健郎著「甘えの構造」です。
この本では、
「甘え」は日本語においてのみはっきり言語化されている概念であり、それに影響され構築される日本社会の中には様々な甘えとの関連が見られる
って感じの話がされています。甘えは普通にバブバブ甘える甘えです。
今回は「甘えとVコンテンツは関連があるだろう」という考えのもと引っ張ってきました。
ここでは、その考えの検討と「内と外」の考え方を書きます。
Vtuberと甘えの密接さは大体明らかではないでしょうか。
象徴的なのはASMRやVtuberへのお悩み相談です。
思いっきり配信者へ寄りかかる様は、もはや魂と魂のぶつかり合い。
一糸まとわぬ男の姿が目に浮かびます。
次に内と外の話。
甘えが作るものの一つとして紹介されていたのが、人間関係における内と外です。
相手からの好意を損ないたくない(ココ甘え)という視点から遠慮が生まれる
↓
遠慮が働く範囲を内(あるいは中間体)、それ以外を外、という区別ができる
↓
さらに内の中で無遠慮(the 甘え)な部分(中間体に対する内)が生まれる
とかなんとか。
著者はこれらのことを「旅の恥は搔き捨て」という外への無遠慮を象徴する言葉や、内外の区別があるため公私の区別が西欧より発達していないことを例に論じていました。
この内がまさしく内輪ノリと親和すると感じた次第です。
うちわ
内輪に入りすぎると危ない
Vを楽しむことと甘え(+内)は関係あるという話でした。
私はそこで、内を大きく広げてしまうと、批判が刺さるマトも大きくなるのではないかと思うんです。
・楽しむ側が内輪ノリを楽しむなら、同時に楽しんでいる他者も内に配置するのではないか
・自分の内への批判は、自分自身に該当せずとも刺さる部分があるのではないか
そういった話です。
毎回5万円スパチャしてる人、推しすぎて現実の生活崩壊している人、男女のイチャイチャを求めている人、オタクノリを楽しんでいる人、ASMRでシコりたいだけの人
色々な人がVの視聴者に居て、そしてオタクコンテンツらしく多様な気持ち悪さを放っています。
内とは反対の外の人は、それを見て無配慮に批判を飛ばせるでしょう。
そしてその批判の矛先も、視聴者の多様性に伴って様々です。
本当は自分に当たっていないのに、内のどこかにかすってしまったのが今回の発端なんだと思います。
単純にコンテンツから距離を置けば、そんなことは起きないでしょう。
またオタクおじさんの中にはスルーがお上手な方がいたりゴシップも見なかったことにできる方がいたりと、経験的に上手く立ち回れる場合もあるようです。
そして今回の話を意識しておくだけでもどこか緩く対応できる気もします。
批判を見るたび
「べ、別にVで得た喜びは否定されないんだが?」
とか
「日本は しほんしゅぎ…社会?なんですけど!」
とか考えるのではなく、内に行き過ぎない(補足参照)適度な距離感を意識するのが良いのではないでしょうか。
※あとがき
華麗にスルーがネット文化的に美しいんですが、甘えの構造読んだら興奮したので頑張って書きました。
Vに限らず自分に直接関係のない批判ってそこら中にあるので多少は応用の利く話なんじゃないでしょうか。
あと「よそから見たらオタクはどこもキモいよ」という話も色んな所で聞きますね。
その話が出る卯月コウの昼ココココココの35分あたり見て書ききろうって思った節はあります。
自分が直接該当するわけではないからこそ素直に消化できない側面があったりするんじゃないかとも思いますが、そこまで書いていたらまとまりが行方不明だし経験的な意見なのでやめました。
3700文字と長いので3か月ぶりもやむなしってことにしとこう。
なおラ〇ス10は色々あって160時間やりました。
補足(カッコつけた引用)
(1)真面目にバーチャル楽しんでいる人
滑稽の研究で紹介されたアリストテレスの言説を引用します。
滑稽とは、何らの苦痛や害悪をも持ちきたさないような「迷誤」及び「歪曲」である
迷誤、歪曲など小難しいですが、以降の文章から滑稽とは有害ならざる醜態だと私は了解しました。
確かに失敗談というのは、こちらに害がなければ笑い話になりますし、あれば「笑い事じゃない」と指摘されます。
つまりVtuberの現実的な言動は、ルールからそれた醜いものだが、懸命にバーチャルを生きる方々にとって有害かつ苦痛であり、滑稽ではない・笑えない、ということです。
(2)「内輪に行き過ぎると」の話
批判云々の話に通じる部分が「甘えの構造」にあったので引用します。
「甘えの構造」は初版が1971年、追加された内容で最新のものが2007年となっています。そのため現代なら怒られそうなビッグ主語センテンスもあるので注意です。
前から良く言われることであるが、日本人は集団生活を好み、自己の帰属する集団と容易に一体化するという。
(中略)
しかし自国の評判にあまり一喜一憂するのはやはりほめたことではあるまい。なぜならそうするのは自分の属する集団に(中略)あまりにも一心同体になり過ぎているからである。
甘えの構造 刊行二十周年に際して
ここで冒頭でも書いた「内輪に行き過ぎると」が付きました。