ネオ管巻きの場

日記テイストに、思った些細なことを表明するブログです。

哲学警察(非実在組織)

初の独白ということでそんな話をします。
ついでに自分の中で存在感がある著作についても多少挙げることが出来て都合が良いです。
先に断っておくと私自身が哲学を大学等で修めたことは無く、これは私お得意の本の受け売り、下手すれば曲解を展開する話です。

 



 

タイトルに行き着く経緯

私は一応理系なのですが、最近は現実逃避の楽しさも相まって文系方面に分類される本をよく読みます。よくよく思い返してみると、小学生の頃なんかは道徳がかなり楽しかった印象があります。そのため現在文系に寄ることがそこまでネガティブな行為では無いと思ってはいます。

そんな好みで読書して、抜群に楽しかったのは中島義道著「哲学の教科書」です。

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

哲学の教科書 (講談社学術文庫)

 

 
この本は「哲学とは何でないか」や、哲学のテーマ(死や時間など)をふんだんに紹介してくれる大変楽しい一冊です。
前者の例としては「哲学とは思想ではない」や「芸術ではない」といった具合ですね。そのジャンル内で「哲学的」とされているものについて触れています。
普段本読まないが哲学の本読むぞ!!という痛い方なら馴染みある「何言ってんだこの本…?」状態にも陥りにくい程度には身近で分かりやすい内容なのでオススメです。


当著ではバッサバッサと「これは哲学的ではない!」「これも!」「あれも!」と色々ぶった切っています。(ここを読むと何だか高次な視点を得た気になって調子に乗りがち)
ここで、ネット上の変な書き込みを多々見てきた者なら必ず閃くのが哲学警察です。
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読んでいく中でまさしく中島氏は哲学警察だな、と思えたのです。



さて、ネットスラングには「○○警察」というものがあります。実在する組織名ではありません。
有名なのは「日本語警察」、「弓道警察」でしょうか。
後者はオタクの間だとアニメ艦これ(OP.EDのメロディ良いよね)でひときわ光を放った概念と認識しております。
ニコニコ大百科にも記事があるくらいです。

弓道警察とは (キュウドウケイサツとは) [単語記事] - ニコニコ大百科



要するに○○に精通した者が、下手したら重箱の隅レベルの粗を、一般人からしたら気にならない場合がほとんどなのに指摘する存在と化したものです。オタクの悪いところが全面に出ちゃった感じですね。
もちろん指摘されるべきレベルの事案(主に詭弁)を取り締まってくれる場合もままあります。
今回はそれの哲学版です。


そんなこんなで今回のタイトルに行き着きました。

何を取り締まるのか、取り締まられる側は不健全なのか

私個人が思う取り締まり対象は「哲学」という言葉の使い方です。

ネット上で私が観測する、すなわちオタッキー(オタクに好かれがち)なコンテンツにおける「哲学」と言えば、個人的には
ご注文はうさぎですか」アニメ1期のOP中にコメントされる
私が私を見つめてました(哲学)



あるいはその元ネタとも推察される汚い用語「○○ってなんだよ(哲学)

あるいはパンツレスリングシリーズ動画にタグとして付けられる「哲学


が代表的ですね。


こういった「哲学」の使用に対して
「ピピっ~、哲学警察だ!!」
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と言う存在を私は妄想した次第です。

さてここで「哲学」とは何かという話になりますが、コトバンクを参照しますと哲学の意味は大別して2つあります。
①世界や人間の根本原理を探求する学問
②人生観、世界観

中々しっくりきます。

このことを踏まえると、中島氏は①の意味のみに基づいて取り締まっていったことが分かります。
また補足すると、私が哲学の教科書を読んだ印象では「文化的な常識をも取り払った、極めて根本的な内容に対する徹底的懐疑を行う学問」という表現が①にふさわしいのかなと思います。
ついでに書きますと②の意味合いは「思想」や「人生論」という言葉に託しているように思えました。

当然ながら、私が「哲学警察」を考えたのも中島氏の著を読んでのことですから、②の意味は認めていません。


そんな定義に基づいて上の例を取り締まってみます。

まずご注文はうさぎですかの例では、
「"私"とは何か」
「"見つめる"とは何か」
「”ました”と過去形だが、過去とは何か」
という視点が欠けているので非哲学的でアウトです。
そして指摘に用いる言葉自体にもいちゃもんが付けられるのではないでしょうか。私もよく分かりません。

次に汚い定型句について言えば、これは○○の内容によりますね。
上で書いた屁理屈的追求が出来そうならアウト、出来ないならセーフです。

最後にパンツレスリングシリーズ
これもどこに視線が向いているかですね。
「なぜこの男たちはパンツを取り合っているのだろう」
といった視点なら恐らくアウトです。


(  ^ω^)………



(; ^ω^)………



い、息苦しい…



こんな揚げ足取り野郎が現実にいたら逃げますね。あ、危ない人だな、って。
こっちは楽しく言葉で遊んでんだから茶々入れるなって話ですね。


現実的な話はともかく、
問題点は、迂闊に「哲学」という言葉を使ってしまった、ただその1点に尽きます。

別に疑問の着眼点は悪くないです。
中島氏も別に非哲学的であることに何ら非があるとは言っていないんですよ。
終盤では現代思想の名著を紹介したりしていますしね。
だから「"私が私を見つめる"ってどういう構図なんだろ~」
とか
「パンツ脱がして何になるんだろ~」
とか
「俺は何でこんなことに時間を使っているんだろ~」
とか思うことに問題は一切ありません。むしろ楽しいまである。
kangaeruhito

「哲学警察」は既出か

あまのじゃく気味な私としましては、考え付いたことが世に広まっていなければいないほどテンションが上がるんです。つまりは勝ちみたいなもんです。別に声高に考えを押し付けたいわけでもないんですけどね。
twitterでくだらないことを呟く時も既出じゃないか、パクツイと化さないかどうか多少調べてから呟くくらいです。
今回もそんな性分に基づき、軽く「"哲学警察"」で検索しました。
その結果、「哲学警察」という言葉自体は既出、しかし取り締まり対象は「哲学について不勉強であるのに哲学的内容を語ること」であることが分かりました。 
具体例としてはこれ


プログラミング警察や人工知能警察みたいに、哲学警察がいて。「君、メルロ=ポンティも分からずにそんなことを言っているのか!」みたいな。
人工知能に「哲学」 - リクナビNEXT


この他にも「哲学警察なので”本質”という言葉の使い方について取り締まりたい」という旨の使い方も見られました。

…う~ん、引き分けw

といった具合。語句自体はあるものの意味合いが異なっていますからね。
まあ四捨五入して俺の勝ち!ってことにしておきましょう。
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なぜ哲学警察が湧かないのか

上では一応既出な概念であると書きましたが、検索の際に「""」で囲んであげないとヒットしないくらいにはマイナーです。

ではなぜたった1冊本を読んだ私ですら思いつく概念なのに表に出ないのか?
揚げ足取りを見ない日は無いくらいのジャパニーズインターネットなのにですよ?
この項ではそこについて多少書きます。



個人的に思う理由は以下の2つです。
指摘しても事態がさほど変わらないから、不毛だから
哲学警察的指摘を行うことが哲学的思索を行う上で不要だから


前者について書くと、今回の取り締まりは「哲学って言うな!」の一言に尽きますから、
「じゃ、じゃあ思想とかに言い換えます…」
とか
「へ、へ~…。なら変な括弧の部分取ります…」
ってなって終わりです。

地味極まりますね。むしろ「なんだあいつ…」って雰囲気をもたらしただけ。
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どっちが悪いのか怪しくなってきますね…。


次に後者
これは要するに「哲学を愛好する者は、そういった粗探しよりも思索の方を優先しそう」という考えです。
そもそも「何が違うのか」とか「違うとは何か」とか色々考える方が好きそう。
さらに言えばこの「○○警察」文化自体、真にそのジャンルを愛する者からすれば疎まれる概念でしょうね。


まとめ

以上長々書いてきたことをまとめます。
正直1記事目から頑張りすぎて積み記事化待ったなしでしたので気合でさらっと書いて終わります。

端的に箇条書きでいくと

  • 私個人が考えた「哲学警察」は、「哲学」という言葉の使い方を取り締まる。
  • 「哲学」の定義は中島氏のそれに基づくので難癖が多発する。
  • 大抵指摘された文章の内容自体は問題ない。
  • 指摘することが中々に空虚なこともあってあまり存在意義がない。考え付く人も少ない。
といった具合です。
最近流行りの「調べてみましたがよく分かりませんでした」系ブログと肉薄するほどに生産性もインパクトもない記事となりましたね…。
哲学警察という概念の地味さがひしひし感じられます…。


そもそもなぜ中島氏が上で書いたように警察と化したかというと、恐らく我々読者、すなわち哲学とは何かを知りたがっている層に「何が哲学か教えてやる!!、俺を見ていろ!!」と身をもって教えたかったからではないでしょうか。
本来のスラング的「警察」の根底には、こういった教導があったように思います。
その根っこから生じた情熱が、日ごろ自分が造詣の深いジャンルについて十分に語れていない反動によって増幅され、それを解放した結果としておせっかい、ただのKY(死語)自己主張を垂れ流す運動を生んでしまった。私は今勝手にそう考えました。
中島氏の場合のように、指摘を受ける(あるいは傍観者)側と指摘する側との間で了解が得られている場合にこそ有意義な警察ムーブが生まれるのではないでしょうか。



以上となります。
中身が薄いながら、個人的に哲学的屁理屈を考える上で大変参考にしている中島氏の著書について触れられたので個人ブログ的には満足感のある内容となりました。