エロシーンの刺激と退屈
私はシナリオを楽しんでいるとき、エロシーンを飛ばします。
一方で、シーンだけ見る日もあります。
エロゲにおいてエロシーンは不可欠です。
しかしその働きには、良い側面も悪い側面もあるのかもしれません。
そんな話です。
1.導入
まず、シーンを読み飛ばす個人的な理由を挙げてみます。
・平常時に行為中のセリフを脳内で読むのがこっぱずかしいから
・どうせ性癖に合ってないから
・シナリオ的に重要でないから
大体これらのいずれか、あるいは複合です。
1つ目に関しては、文字から喘ぎ声を自分なりに脳内再生するのがキツいっすね…
ましてやエロ目的じゃないときにはね…
私はボイス再生を待たずにクリックしがちな人間なのでそうなってます。
2つ目はまあ、そうっていう感じです。
内容もそうですが、大玉スイカやアヘ顔、ひょっとこ顔など奇抜な身体描写のほか、純粋な絵柄も一因です。
(画像元:対魔忍RPG - オンラインゲーム - DMM GAMES)画像に他意はあります
そして今回中心的に取り上げたいのが3つ目です。
例のごとく読書感想文とともに書きます。
2.読書感想文
今回読んだのは、ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの逆説』です。
※この中に収録されているエッセイです。
タイトルの意味は、エロティシズムとは常軌逸脱からなるもので、逆にそれが正常とは何かを裏付けているよねみたいな感じ?って話だと思います。大分自信ないです。
今回興奮したのはそこではなく、バタイユが唱えるエロチック文学の限界に関する話です。
物語においては、基本的に常軌を逸した話の方が面白いです。
規則正しい話、どこかで聞いた話をされても盛り上がりません。
そんな中でバタイユが語るのは「エロチック文学の展開って大体同じじゃね?」です。
似た展開ばかり読んでも面白くありません。
しかし「でも読者飽きないよな」とバタイユは言います。
以下引用
エロチックな文学が繰り返されているのは、エロチックな文学が読者を退屈させずに同じことを繰り返すことができているからなのだ。
もっと正確に言おう。題名は変わっても設定された場面は変わらない一連のエロチックな小説を読むたびごとにそのなかの破廉恥な話に胸を躍らせ驚きを覚える読者がいる。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの逆説』
引用終わり
本文ではこの後、言語の表現不可能性が~とか、そんな限界を超えた作品が~とか続きます。
全体的に難しい話だったのですが、上で引用した部分は私にも分かる部分でした。
まさしくエロゲにおけるエロを、さらにはそれ以外のポルノをも形容しています。
「え?これ女優変わっただけじゃね?」
とか
「誘う/始める流れが変わっただけやないかーい」
といったマイナーチェンジポルノ、たくさんあると断言できます。
なぜそんな作品があるか、それは既存ユーザーでも刺激があるからでしょう。
(画像元:『100万回生きたねこ』(佐野 洋子)|講談社BOOK倶楽部)
そして全く同じ作品を幾度となく見るのも日常でしょう。
有名なコラ画像もありますしね。(佐野さんは怒っていい)
ともかく、このことと自分の経験を併せて考えてみます。
振り返ってみると、平和なエロシーンはシナリオ的には退屈です。
"平和"というのは、その世界に何の脅威もなく、犯罪もない安心感のあるものということです。
平和のイメージ
要するにエロゲ的に普通なシーンです。
シナリオを俯瞰したとき、そんなシーンは大抵「ヤった」以上の意味がありません。
バタイユはエロシーンを「退屈させずに繰り返せる」と言います。
しかしそれはエロを目的とした読者に対してです。
アニメの延長みたいにシナリオで勝負するエロゲもあります。
シナリオに夢中な人にとって、意味も薄い既視感のあるシーンは退屈だと思えるのです。
エロゲはその名前からしてエロありきで、また根底にあるのは美少女です。
HENTAIアートはびこる日本で、エロシーンはあって然るべきでしょう。
しかしながら私は、そのエロを邪魔と思う読み方も1つの在り方だと思えてならないのです。
本論終わり
あとがき
だいぶ更新が空きました。ぎりぎり9月中に出せたので良しとしましょう。
この記事自体は3か月以上前から書き始めてはいたんですけどね。まあここからペースが上がるとよいですね。
小説を読むのが久しぶりでうまく情景を思い描けたかは微妙ですが、タクシー運転手の場面はシュ~ルだなあって思いました。
補足①
バタイユのいう"エロチック文学"が「出会ってやるまでの一部始終」を指すのか「やってる最中やその前後のみ」を指すのかは多少怪しいです。
しかしバタイユが今回語っていた"エロティシズム"は、それすなわち「卑猥なもの」「恥辱に類するもの」という意味合いに思えました。そのため「エロチック文学≒エロティシズムを描いた部分」としてよいのなら、今回の話で合っているのではないでしょうか。
「出会いからやるまでの内容が繰り返しだ!!」って言われますとエロゲはもう何も言えなくなってしまいますね。
補足②
もちろんエロゲの中にはエロシーンの意味合いが大きい作品もあります。
それがゆえにエロゲのコンシューマ版は手が出しにくいです。
これまでやった作品の中で言えば
・呼び名が変わるorのちの重要な場面で思い出として語られる
・絶対に手を出しちゃいけない炉利に手を出す
・死にかけのヒロインに手を出してその後ヒロインが死ぬ
・主人公が異世界に旅立つので思い出にやる
・ヒロインの裸を見て昔のトラウマがよみがえりヒロインの首を絞める
などがあります。
また作品によっては本筋クリア後にシーンが別途開放されるものもあります。いさぎよくていいですね。
余談①
別に私が「エロゲにエロシーンは不要!!!!!」って叫びたいわけではありません。
これを書き始めたころ5本5500円ということでシリーズもののエロゲを買いました。
5本ともストーリーはあってないようなもので、だいたい妖怪に負けてひどい目に合うゲームです。
それを私はしっかり5本とも読みつくしました。
後半の作品になるにつれ作画やLive2Dの質が良くなっていったのが印象的です。
一番エロかったのはヒダル神です。
プレイして気どれないゲームもその程度には遊んでいます。
余談②
エロゲではエロシーンによる退屈さが”シーンノルマ”によって倍増します。
"シーンノルマ"とは私が勝手に名付けたエロゲ界の因習で、
・どのメインヒロインにもほぼ同じ数のシーンを用意する
・立ち絵の服装にバリエーションがある場合、どの服装にもシーンを用意する
というものです。
これらにより
「めちゃくちゃシリアスなんだけどこれからシーン挟むのか…」
とか
「なんか唐突に着替えたな…ということは…」
といった思いが生じて興ざめに繋がります。
特にひどい作品だと無理やりねじこんだ感が強く「ぐぬぬ…」ってなってしまいます。
(画像元:PS Vita アマツツミ キャラクター:朝比奈響子)こういう場合は必ず3シーン以上あります
この子の巫女服シーンのねじ込んだ感には一人怒りました